「NO DIRECTION HOME」
歌いたいから歌う。
歌いたい唄を歌う。
歌いたい唄を好きな方法で歌う。
ロックを歌い、フォークを歌い、ウディ・ガスリーを歌い、
そして自分の歌を歌ってきた。
いつだって、ボブ・ディランは、そのスタイルを変えていない。
映画を見て、ディランの、そしてその周りの人達の視点からも
ボブ・ディランという人物を見ると、そんな風に思える。
僕は、けっこう自伝的な作品が好きだったりする。
それほど関心のない人物だとしても、その人の歩んできた道のりが
その人の人物像を、少しだが感じることができる。
何を思ってきたか、何をしてきたのか、何を残してきたのか。
音楽も、同じようなものだと思う。
そこには、その人の何かが込められている。
それが何なのか本人だってわからないことがあるだろうし、
観衆には、もっとわからないだろう。
もしくは、わかった気でいる人たちもいるだろう。
寂しがる人もいなくなるよte>
こう語った人が、劇中でいた。
音楽だけに限らず、色んなものが受け継がれていく。
先人の偉大なアイデアを土台に、新しい自分のオリジナルを加える。
著作権の問題が表立った時に、誰だったか、
過去のものなしに、新しいものは生まれない、
というようなことを言っていた気がする。
悲しいことに、僕と同世代の人たちは、
ボブ・ディランをあまり知らない人が多い。
せいぜい「blowin' in the wind」くらい。
アメリカとかでは、そんなことないとは思うけど、
世界の終わりが来た時に、ボブ・ディランのことを
知っている人がいないことになっていたら、少し寂しい。
いい歌は、受け継がれるべきだと感じた。
たとえ帰る家などなくたって、ずっと探して歩き続けてきた。
「Play it fucking loud(でっかく行こう!)」
と映画の最後に叫び「Like a Rolling Stone」を演奏するシーンは
めちゃめちゃ、かっこよかった。
もちろん演奏もすごい、シビれた。
フォークミュージックばかりにディランの精神が宿るのではない。
今、この瞬間こそまさに。
彼が、何をその手で演奏するのかが問題でない。
何を歌うのかも問題でない。
その奏でる音こそに、その精神は宿るんじゃないだろうか。