『海辺のカフカ』 村上春樹

海辺のカフカ (上) 海辺のカフカ (下) 海辺のカフカ (上)(下) 15歳の少年は、そこから逃れるために冒険に出た。 あるいは、何かをなし得るために。 一人の老人も冒険に出る。 失ってしまった何かを、自分の半身を、自らの影を求めて。 この本が出た頃、僕は16歳だった。 その頃村上春樹などまったく興味がなかった。 そしてこの本を読んだ今、僕は20歳になった。 僕は15歳の頃、タフな人間などではなかったし、 特別変化したとも思わない。 15歳の頃の転機といえば、故郷の町や、仲の良い友人達から離れ 隣町の高校に進学したということくらいだ。 でも、それは環境の変化で、人間としての変化としては、 どちらかといえば、20歳になって少し変わってきたと思う。 転換の年は、15歳の次に20歳くらいがしっくりくる気がする。 そういえば、この本と似た話で同作者の 世界の終わりとハードボイルドワンダーランドがある。 その本が出た年は、僕が生まれた年だった。 変化といえば、最近フランツ・カフカ変身を読んだばかりだった。 こう、考えるとそこに何か意味があるんじゃないかと思うが、 実際、そんなことはない。 同年代の人ならば、大体がそんなものかもしれない。 でも、色んなことが繋がって、その関連に意味があるかもしれない。 必然性ではない、単なる偶然だけど、関係性が持たれる可能性はある。 そしてそこから、何かしらの意味が生まれるかもしれない。 どうやら文章が破綻してきてしまったみたい。 ホントに書きたいことは、他のことでいっぱいあったんだけど 何故かこんな文章になってしまった。
世界はメタファーだ、カフカ君。 でもね、僕にとっても君にとっても、 この図書館だけはなんのメタファーでもない。 この図書館はどこまでいっても―――この図書館だ。 僕と君とのあいだで、それだけははっきりしておきたい。
僕にとって、この本がメタファーではなく 『海辺のカフカ』以外の何でもないものであったら、 それは幸せなことかもしれない。 別に15歳の象徴でなくても、図書館のことでも、変身のことでもなく 『海辺のカフカ』としてだけあれば、それでいい。 僕の物語に拳銃が出てきたからといって、 それは発射されなくは、ならないことなんてまったくない。 そこにあるだけでいい。なにか関係があるかもしれないくらいでいい。 この本も、そんな曖昧模糊で不思議なくらいでいい。 そんな気がしている。
絵を眺めるんだ、風の音を聞くんだ。
海を見るといい、空を見上げるといい、自分をみつめるといい。 海辺のカフカを思うといい。 僕には、それができる。