『ゼロ年代の想像力』 宇野常寛

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1) [文庫] / 宇野 常寛 (著); 早川書房 (刊)  ゼロ年代の想像力

昨日生まれて初めて、握手会というものを経験したkakasiです。こんばんは。

握手会があるということも知らなかったのだけど、

ライブ前の物販でライブDVDを買った人は

握手会参加できますと言ってたのでラッキーだった。

今日も休みにしてもらったので、終電乗れなくて漫画喫茶で寝ることになったけど

「気にしない、気にしない」っていう気にしないというフレーズは

今日のライブでも叫んできたフレーズ。恋のショック療法という楽曲。

そう、すかんちのライブを見に行って来たけど、それはまたブログで語ります。

今回は、小説でなくて論文みたいなものを読んでみた。

画像には載っていないけど、

ショッキングピンクみたいな色の帯がやたらと目に入って買ってしまった。

漫画やアニメドラマなどのサブカルチャーから見る

人々の思考回路、想像力の変化みたいなものを論ずる。みたいな内容だった。

社会学の論文のようだった。

対比としてゼロ年代以前の文化からの思考もしっかり触れていて、

何に価値があるのかを規定してくれる

大きな物語の消失」というのは特に興味深かった。

昨年読んだ『ヴィーナスの命題』という小説でも

大きな物語という言葉が強い意味を持っていたので。

サブカルチャーから外れてメインカルチャーもしっかり触れていたし、

この本はしっかり練られているなぁという印象だった。

しっかり感想を書くと本気で論文を書くかのように

資料が必要なので、この辺で割愛を。

この中で挙げられているものは、読んだり見たことがないものも含まれていたけど

言いたいことはよくわかるので、話の対象となるものを知らなくても

しっかりと伝えたいことがわかるので読みやすかった。

ちなみにカバーの裏の書評には

かつて社会は「大きな物語」に支えられていた。

その効力が失われた今、私たちはどういきていくべきなのか。

ゼロ年代に生まれた想像力は新たな物語を掲示しえたのか

とある。作品からその時代時代を切り取った新たな物語がないと

クソだみたいな(そんなことは書いてはいないけど)

まるで価値がないもののような扱いは、酷いと思う。

この本のテーマからは確かに合わない作品かもしれないけど

時代とかそういうものを超越して、ただ面白いという作品だってあるわけで…

その辺りのフォローは欲しいなと思う。ちょっと読んでいていらいらしてしまった。

色々と多くのことをこの本では触れているが、

その中で、思いもよらずの不意打ちだったのが、

郊外の物語というものがった。

その章のタイトルは「宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか」だ。

僕は今年で28歳になるのだけど、同年代はピンとくると思う。

今はもう語られることも少ないけど、

池袋ウエストゲートパーク」「木更津キャッツアイ

僕等の世代の象徴的なドラマだった。

ちなみに、今日池袋の西口公園に行ってきました。

あと筆者は「マンハッタンラブストーリー」については

宮藤官九郎の臨界点としての作品と捉えていた。

とりわけ僕は、木更津キャッツアイに思い入れが深くて

この本で一番のうなってしまった部分は、

木更津は完全な「郊外」だ。

池袋のストリートには辛うじて存在していた

凝縮性の高さすらそこには存在しない。

自分の人生がつまらないのを世界のせいにするには

絶好の場所だ。

だが、ぶっさんは「引きこもり」も

決断主義」も選ばなかった。なぜか?

それはぶっさんにとって、

「郊外」は決して絶望的な空間ではなかったからだ。

中略

あの「郊外」が、岡崎京子が絶望し、

庵野秀明が絶望し、

佐藤智哉や瀧本竜彦が生き生きと安っぽい絶望ゴッコを語った

「モノはあっても物語のない:

郊外が、むしろ過剰なまでに物語に

溢れた空間として描かれているのだ

という部分だった。

普通を選んだぶっさんは、つまらない日常を諦めて受け入れる

という意味で普通を選んだのではなくて

日常の中の豊かさをめいっぱい満喫するという普通を選んだ。

普通と書いたボールを見つめるぶっさんがフラッシュバックしてきた。