『カンバセイション・ピース』 保坂和志

カンバセイション・ピース (新潮文庫)カンバセイション・ピース

とくに何もない日常。

明確な起承転結もなければ、事件が起こるわけでもない。

起こってしまったのは過去であり、

現在に何かが起こったということもないのだけど、

繰り返される会話の中で、ゆるやかな変化が見られた。

とか言っても、確かな変化があるわけではないし、

徹頭徹尾、登場人物たちは何も変わってないとも思える。

変わったと思えるのは、読んでいる自分の心なのかもしれない。

とくに胸を打つ行動や言葉があるわけでもない。

だけど、じわじわと思い起こさせるようなことでいっぱいだった。

この小説は人物というより、家が主役なのかもしれない。

エンターテイメントでも推理物でもない、リアルな日常の小説なので

擬人化して家が語るわけでもない。

だけど、中心にあるのは間違いなく家で、

僕は、かつて住んでいた自分の我が家を思い起こさせずにいられない。

かつてあった風景であったり、日の当たる場所だったり、

薄暗くなった廊下、果てには、庭の草花のこと。

帯に小津安二郎の映画のようと書いてあるのは、

ゆったりとした日常を描いて、家族のことや、家のことを題材に出し、

心情風景を導き出すことからなのかなぁと思った。

とくに明確な答えを出されてないので、本当のところはどうなのかわからない。

小津安二郎の映画は、「お早よう」「東京物語」「秋日和」の3作しか見ていないので、

まだ、なんとも言えないところ。

文中で、小津安二郎という言葉が出てきたことと、

視点の話から、小津のカメラワークを引き合いにしたからなのか。

でも、そんなことはあんまり関係なく、

ある意味、作者の考えを小説風味にして出した論文みたいにも思えて、

その考え方が、特別驚きでもなく、なんとなくそうなのかもしれないかなと、

妙に納得させられてしまった。

たぶん僕自身が、そうであって欲しいと思っているだけかもしれない。

記憶するのは人間だけでなく、家もまたそうであって欲しい。

記憶というより、刻み込まれているとか、しまいこんでいるの方が近いのだろうか。

自分の実家は良い思い出ばかりではないかもしれないかもしれないけど、

ずっと住んでいた場所だし、大切な所だと僕は言える。

懐かしいとかそういうこともあるけど、それだけじゃなく

家はただ建っているというだけでなく、

様々な記憶を記憶できる場所なんだと認識させられるような話だった。