『塗仏の宴 宴の始末』 京極夏彦

塗仏の宴 宴の始末塗仏の宴 宴の始末

今の自分とは、本当に自分なのか。

ホントの私とは、何なのか。

夢の中での自分を自分と疑わないことがある。

ならば、現実世界の自分を自分と疑わないことは理かもしれない。

現実を現実と認識することは「事」といい、

それを理論づけたり言葉に乗せることを「理」と言うらしい。

仏教における理は、道理・義理・条理を意味し、

治める、正すなどの意味で用いるよう。

だとしたら、京極堂こと中禅寺秋彦

つまり京極夏彦とは、この小説世界における「理」なんだろう。

中禅寺自身は多分優しい男なのだろう。

しかしその言葉は怖い

信じているものが破綻した時、残るものは何なのだろう。

恐らく、怒り、失望、絶望。

今回は、そんな人々が多数出てくる。

自らを信じられなくなった時、個人は終わるかもしれない。

この京極堂シリーズの強みというか、醍醐味は言葉の力だと思う。

しかし、今回は言葉でさえ無力であるとも思える。

結局、自分を信じれるのは自分だけ。

自分を認められないで、誰が認めるというのだ。

言葉は、無力かもと言ったが、やはり京極堂の言葉は、今回も怖い。

その上、効力も強い。

前作からの、僕の憑き物のようなモヤモヤも解けたよう。

おまけに、妖怪や霊の定義づけの講釈まで受けられ、大変興味深かった。

今作で宴は終わった。

宴と言うくらいだから、登場人物もハンパではない。

正直、読み終えても多少頭が、ゴチャゴチャしている。

しかし、やはり印象深いのは、ラストに出てくるお馴染みの言葉。

この世には不思議なことなど何もないのです
ある意味、京極堂シリーズの完成形とも思えるこの作品。

しかし、まだまだ続くようで。

京極堂というこのシリーズの強固なファクターに対抗できるほどの人物が

現われ、これからどうなって彼らの平行線が交わっていくのか。

言葉と言えば、朝日新聞のCMの

言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ

それでも私たちは信じている、言葉のチカラを

この言葉が、ちょっと前よく目についた。

このシリーズを読んでると言葉は、道具だとよく思うことがある。

そして怖いものであり、恐れるものでもあると思う。

まあ、朝日新聞の勧誘が、あまりに煩わしいこともあり、

単に朝日だから変な見方をするせいかもしれないけど、

所詮、言葉を使役するのは人だろって思ってしまう。

でも、言葉に支配されてしまうこともあるわけで…

ともかく言葉に支配されないようにありたい。

と思うけど、この小説の紡ぐ言葉に支配されているみたいです。

参考ページwikipedia「理」